「関東管領」とは鎌倉府の「鎌倉公方(くぼう)様の執事役の役職名で、非常に大変な役どころであったようです・・・。1428年当時の将軍は、4代将軍「足利義持 (あしかがよしもち)」で、室町幕府は京都に拠点を置いた。鎌倉を預かる鎌倉公方は、「足利持氏(あしかがもちうじ)」で、憲実の主君だったがいつも将軍の ポストを狙っているような方だった。4代将軍・義持とその息子5代将軍「義量(よしかず)」がなくなり、義量には子がいなかった。鎌倉公方・持氏は「自分が将 軍になれるかも」と期待していたが、なんと「籤(くじ)」で4代将軍・義持の弟「義教(よしのり)」が6代将軍に決まってしまった。鎌倉公方・持氏は、腹を立 てことごとく幕府のいうことをきかないし、こともあろうに兵を挙げて上洛しようとする。憲実は必死で諫止し、幕府との間に挟まれてんやわんやの状態。挙句の果てには、鎌倉公方・持氏が憲実を討伐するとの噂が流れ、憲実は一時避難することもあったという。これは、ただの噂話で済み憲実は復帰するのだが、二人の確執は深まるばかり。
 1438年持氏の嫡男の元服の際にも、憲実は慣例に従い将軍の名の一字拝領を賜るよう進言するが持氏は無視して「義久」としている。この頃からまた、持氏が憲実を暗殺するという噂が目立ち、憲実は義久の元服祝儀を欠席している。暫く経って、憲実は危険を感じ再度避難し、今回は武装して待ち受けた。持氏はとうとう憲実討伐の兵を挙げ、自分も出陣したが、幕府はこれを聞くや持氏討伐の兵を下し、持氏の鎌倉軍を打ち破った。持氏は出家し、憲実は将軍・義教に主君・持氏の命と義久の鎌倉公方就任を懇願するが許されず、持氏と義久は自害した。
 その後憲実は主君とその長男を死なせてしまった自責の念にかられて、後のことを弟に託し、伊豆に退き出家した。ところが、1440年結城氏が持氏の次男、3男を擁立し挙兵したため、将軍・義教は憲実に政界復帰を命じ、憲実は已む無く出陣しこれを討ち取った。憲実は持氏の次男、3男の命乞いを将軍・義教にするが聞き入れられず、二人は殺された。また、持氏の4男・永寿丸も見つけ出され、憲実は同じく命乞いするが許されず殺されかけたところ「歴史の悪戯」が起こった。
 将軍・義教が家臣・赤松氏に殺されるというとんでもないことがおこり、大騒ぎとなったため、幕府管領・細川氏の判断で永寿丸の命は助かった。この永寿丸が後の鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)となる。憲実は、その後再び隠遁した。そして越後守護家を継いだ次男房顕(ふさあき)を除く自分の子供たちもすべて出家させた。決して還俗せぬよう命じたのだが、1447年長男の憲忠(のりただ)が還俗して関東管領に就任した。憲実は長男憲忠を勘当した。鎌倉公方は持氏の末っ子の「足利成氏」。憲実の心配した通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は1454年に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまう。
 この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴き、大内氏を頼って留まり、ここ大寧寺を安堵の地とされたのである。