上杉憲実(うえすぎのりざね)公の墓 |
室町時代の「関東管領(かんれい)」で、足利学校・鎌倉文庫の再興で名高い。幕府内の政争に疲れ出家した。諸国行脚の後、当寺第4世 竹居(ちっきょ)和尚
に参究し弟子となり1466年に静かに一生を終えられた。⇒もっと詳しく。 |
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大内義隆(おおうちよしたか)公と主従の墓 |
戦国時代の周防、長門など6カ国の守護大名。また、フランシスコ・ザビエルと接見したり、山口を「西の京」と言わしめた大内文化を花開かせた文化人でもある。1551年重臣・陶隆房(すえたかふさ)≪後の晴賢(はるかた)≫の謀反によりここ大寧寺に追われ、当寺第13世 異雪(いせつ)和尚に末後の示戒を請い、自刃した。 |
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威盛院良昌(いじょういん りょうしょう)の墓 |
良昌上人は、周防の国山口の人。毛利藩士 榎本氏の家臣だったが、主人が亡くなり出家し、「高野山宝性院」に入り、「法印春山」の弟子となった。寛永18年(1641年)「高田八幡宮(穴八幡宮)」に社僧として招かれ、「放生寺」を開創した。
良昌上人のお墓の周りには、「住吉大明神安禅石」(これは、故事にあるように住吉大明神が座禅をされた石。)と良昌上人の建立した「安禅石を示す石碑」が佇む。また、すぐ傍に「榎本遠江就時」の墓があり、良昌上人の元の主人ではないかと思われ、菩提を弔うために老後を大寧寺で過ごし、ここで亡くなったと考えられている。
威盛院光松山放生寺(いじょういん こうしょうざん ほうじょうじ)
所在地 東京都新宿区西早稲田2-1-14
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